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「牧師になった新撰組隊士」=結城無二三の生涯=


日下部教会 小林貞夫

はじめに

幕末の頃新撰組に加わって活躍し、戊辰戦争で敗れて挫折、しばらくして実業家を試みてこれも挫折、ついにはキリスト教の牧師となって生涯を全うした結城無二三についてお話ししようと思います。

 

私は山梨県山梨市にある日本基督教団日下部教会の信徒です。日下部教会は1879年(明治12)に伝道が始められたのですが、初代の牧師が結城無二三でした。結城無二三牧師によって、日下部教会が開かれたのです。

 

(1)江戸へ向かう


結城無二三は山梨県山梨市日川村一丁田中で生まれました。1845年(弘化2年)のことです。代々医者をしていた家に長男として生まれたので、周囲も本人も当然、医者になるものと思っていました。
 

ところが、9才の時にペリーの来航があり、その後の出来事が無二三を刺激し、桜田門の事件を聞くと、自分も天下に名を為したいとの思い止み難く、16才の春、江戸に向かいました。名目は医術の研鑽でしたが、「武者修行への出で立ちのようであった」という記録が残っています。江戸に着いた結城無二三は、幕府御典医の書生となりましたが、江戸に来た目的が青雲の志を果たすためですから、医術の学びは二の次でした。
 

しばらくして大橋訥庵の思誠塾にも入門して高杉晋作などと共に、攘夷論、剣法、軍学兵法を学びました。浪士の仲間入りをしたことにもなります。さらに無二三は、これからの兵法は洋式が大切だと考え、幕府の講武所に入り、大砲の撃ち方扱い方を身につけました。17才のときでした。
 

大橋訥庵が攘夷論を主張する著書を発刊したため幕府に捕縛され、無二三など門弟たちの身辺も少しあやしくなりました。その頃 父が危篤となり山梨の生家に帰りました。

(2)新撰組に加わる


無二三は父の葬儀を終えると財産管理を塩山市粟生野に嫁いだ姉に託して、京都に行きました。大橋訥庵の件で江戸が住みにくいという理由もありましたが、「これからは京だ」と言い残しての上京で、着くと間もなく、見廻組の一員になりました。この時の事情を無二三自身の語った記録で読みましょう。
 

「私が正式に新撰組に入りましたのは慶応3年のことですが、関係は随分古くからあり、ことに近藤とは京都におりました間、始終別懇にしておりました。私は一体京都では見廻組の厄介になったものですが、見廻組の方は旗本の集まり、新撰組の方は浪人の集まりだったので、当時浪人の私は、自然新撰組の方へばかり行っていたのです一一一一」
 

京都での活躍は大変なものだったのですが、「何人ぐらい人を斬りましたか」という質問には、笑って答えなかったそうです。気魂するどい太刀回りだったことは確かです。「真剣でやると実に強かった」という記録もあります。
 

慶応4年1月鳥羽・伏見で幕府軍と薩長軍が衝突、いわゆる戊辰戦争が起き、幕府側が敗れます。新撰組も無二三も敗走することになります。大阪での反攻を断念した幕府家は富士山丸と順動丸で江戸に戻りました。「くやしくてたまらなかった」という無二三の述懐も残されています。

(3)甲陽鎮撫隊


薩長を中心とする西軍は、一気に江戸を目指して進んで来ました。幕府の対応が、恭順派と抗戦派でゆれている中で、新撰組などの強い主張で、甲陽鎮撫隊が組織されました。
東海道と中仙道の2手に分かれて東進する西軍に対し、幕府直轄の甲府城を固めて、中仙道を攻めてくる西軍を迎え撃つという目的でした。

 

甲府と甲府城と甲府盆地の地形などは、無二三のいわばホームグラウンドです。裏道も、森の茂り方も知っていました。
 

近藤勇が隊長、土方歳三が副隊長、結城無二三が地理先道兼大砲指南役となった甲陽鎮撫隊は、大砲二門を含む一行200名で、慶応4年3月1日に江戸を出発しました。大名格10万石を与えられた近藤勇は、かごに乗っての出発です。
 

西軍の中仙道入りのニュースは入っていますから、甲陽鎮撫隊も先を急ぐ必要があったのですが、道順にあたる日野周辺では、近藤勇の出世が評判を呼び、大歓迎が続いたので、進軍のペースは落ちました。
 

現在の地図に直すと、3月1日に丸の内を出発して新宿に泊まり、2日には日野に、3日には相模湖に泊まったことになります。
 

この夜、早馬の知らせで、板垣退助率いる西軍は下諏訪まで来たことを知らされました。下諏訪・甲府間は13里、与瀬から甲府までは17里、その上、間に笹子峠があるので、甲府への到着ではかなわないことが分りました。
 

それでも、無二三は甲府までの道や甲府の街並みをしっていたので、工夫しだいでは、甲府城に入れると考え、雪の中、夜を徹する行軍をし、笹子峠を越え駒飼に着きました。3月4日の朝になっていました。
 

その時、西軍は甲府城に入ったことを知らされました。1400名の西軍とでは、城攻めでも野戦でも対抗できません。無二三が中心となり、勝沼の山に大砲を据え、甲府盆地の東出口で百軍を措止する、という作戦がきまり、布陣しました。3月5日夕方のことです。その日の夜、無二三は生家の一丁田中に行って兵を募り、協力を呼びかけました。さらに塩山市の粟生野の松泉寺で、近郷の名主一同に集まってもらい、そこで甲陽鎮撫隊の趣旨を説明して幕府への協力を依頼しました。みなは誓約書を書いて協力を約束してくれました。鉄砲を持っている猟師なども加わってくれることになりました。その時、すでに3月6日になっていました。無二三は夜明けを待って粟生野を出て勝沼に向かいました。
 

ところが大変でした。実は西軍は6日の朝から勝沼に攻撃をしかけ、大砲を据えた柏尾の山の激闘も2時間で敗れてしまいました。近藤も土方も8日には八王子で会っていますので、いそいで逃げたことになります。
 

結城無二三は行く所も、居る所もなくなりました。甲陽鎮撫隊といっても、実体は新撰組で、西軍に破れて散ってしまったからです。やがて、近藤勇も処刑されてからは、完全に追われる身となりました。青雲の志23才の挫折となりました。

 

(4)実業家を目指す


しばらく身をひそめていましたが、翌明治2年5月五稜郭の戦いで、一連の抗争が終わりを告げると、旧幕府軍に属した者も、申し出て放免となり、その多くが沼津近辺に住みました。
 

無二三もそういう一人として、旧知の友もいる沼津に居住しました。そして、新しく設立された沼津兵学校の付属小学校に入り、西洋式のすべての学びを初歩から学ぶことにしました。
 

その頃、友人のもめごとを解決するために数回、江戸に行っていますが、この時、勝海舟と親しくなりました。兵学校の教師の中に山岡鉄舟がおり、勝と山岡は、無二三を見込んで、「伊豆の大島を全部やるから、大牧場をつくり、乳牛飼育をする」ように奨めました。当時としては、畜産業は西欧に追いつくための重要な施策でした。無二三はこれを引き受け、伊東港からの舟に牛まで積みこみました。
 

その時、山梨に「大小切騒動」と呼ばれる大きな事件が起きました。明治新政府の税制に対する不満が高じたもので、甲府盆地東部では農民一揆的になりました。伝え聞いた無二三は、これは自分の出番と考え、大島計画をすべてキャンセルして、山梨に戻って来たのですが、騒動は治まっていたのです。再び大きな挫折を味わうことになってしまいました。沼津には戻らずに、祖母の家のある御代咲村で農業を始めました。2年後には甲府博覧会を実現して、実業家としても力を出しました。さらに乳牛事業を始めたところ、県の役人と衝突。再び農業のみの生活になりました。妻前田まつと結婚して、1年は経っていませんでした。人びとの目には隠遁生活に見えました。

 

(5)宣教師CSイビー


再び人びとの間に結城無二三が登場したのは、それから4年後1879年(明治12)でした。キリスト教を伝える人、聖書を掲げて、ここに書いてある神を信じるようにと、伝道する人になっていました。
 

正式に牧師になるのは少しあとになりますが、最初から、牧師のような勢いで伝道に励みました。30才までの無二三を知っている人は、34才の無二三を見て、「気でも違ったずらか」と話し合ったそうです。
 

結城無二三がキリスト教信者となるために決定的な役割を果たしたのはCSイビー宣教師でした。
 

イビー宣教師は、カナダメソヂスト教会から、日本伝道のために派遣され、1877年(明治10)には、山梨県南部町の近藤喜則に招かれ、私塾「蒙軒塾」で歴史と英語と聖書を講じました。
 

これに刺激された新海栄太郎や根津嘉-郎たちは、甲府で英語塾を開き、イビーを講師として迎えました。
 

イビーは甲府に来ると英語塾で教えました。同時に伝道所を開設して布教活動を盛んに行いました。甲府市百石町で開かれた毎日曜の礼拝には、100人以上の人が集まりました。これが、今日の日本基督教団甲府教会の始まりです。
 山梨県下一円を、馬に乗ってキリスト教を拡めて行きました。6尺豊かな異人の爆発的伝道が行われました。

 

イビーが山梨県南部町に来た1877年は、西南戦争で西郷隆盛が自決した年にあたるのですから、そういう時に、カナダより来日して、山梨県での4年間の伝道生活を送っていたのは、大変な事、信仰の勇気によるものでした。

 

(6)結城無二三の受洗


結城無二三は、その頃は先にのべたように隠遁生活をしていました。妻と作男と牛をつれて、山寺に住み、農業をしていました。荘子などの漢籍とともに、中国訳の聖書も持って行きました。長男も生まれ、開墾もすすんで、文字通りの晴耕雨読でした。
 

18 7 8年(明治11)山にこもって3年日の年末のことです。雪で道が閉ざされる前に、作男が食料などを求めに里に下りました。ところがその日、妻が高熱を出して倒れました。医者の子である無二三は煎じ薬などで手当をしたのですが、一向に良くなりません。
 

その内に、自分も高熱で苦しくなり身動きがむずかしくなりました。長男は泣き続けるという、どうにもならない状況になってしまいました。
 

その時、無二三の頭に聖書の言葉が浮かびました。聖書の中の詩編に、聖書の神は全知全能であると書いてある言葉です。そして心からお祈りをすれば、願いを聞いて下さる、助けて下さる、という言葉でした。
 

無二三は、祈り方など知りませんでしたが、なにもかまわず、一心に、おすがりするつもりで祈ったのです。
 

すると、熱が下がったのです。赤子も泣き止みました。妻も正気になりました。2・3日はかかる筈の作男も帰って来ました。思いがけないことが連続しておきました。無二三は、聖書を仏壇に供えて合掌し、聖書の神にお礼を申し上げました。
 

全快後、すぐにイビーを尋ねました。聖書と聖書の神のことを、正しく、深く知りたいと思ったからです。イビーは、無二三からの話を全部聞くと言いました。
 

「あなたが私の所へ来たのは奇蹟です。日本に神さまのことを知らせるために、結城無二三を用意されていたのです。あなたが死生の間をくぐったのも、山の中に入ったのも、病気になったのも、みんな神さまの計画です。ですから、あなたは、これからの人生を神さまに捧げなさい。今日からですよ。明日からではありません。私と一緒です。」
 

宣教師イビーの日本語はたどたどしいものでした。結城無二三の英語も、ほんの初歩でした。でも、イビーの説くことは、たちどころに理解されました。
 

無二三は山を捨て、甲府に住みました。イビーに初めて会った3ヶ月後、1879年4月6日、甲府教会で、親子三人がイビーより洗礼をうけました。家族をあげて洗礼を受けたのは、甲府教会でも始めてでした。

 

(7)結城無二三の伝道


34才の結城無二三は、その日から、イビーを助けて伝道を始めました。それも、自分の生家である山梨市日川村を始め、郷里と呼ばれる東山梨の全域を目指しました。
 

日下部教会には教会史「笛吹にそそがれた恩寵」誌がありますが、それには、「日下部会域での福音の第一声は、結城無二三牧師によって発せられたのである。もちろん宣教師イビーはこれ以前に馬に乗って勝沼を何回も尋ねて伝道している。途中の日川村やー宮村や甲運村で福音をのべ伝えたのに相違ないし、その記録も断片的には残されている。しかし結城牧師の回心とその前後の状況をつなぎ合わせると、第一声は、結城牧師の次のような宣教の証として発せられたのであった。『聖書の神は全知全能である。この神を信じて、ひたすらに祈りさえすれば救われる。われらの願いは聞き入れられるのである。そうすれば、日本も生まれ変わることが出来る。希望を持つことがゆるされる。聖書の神を信じる者は、バプテスマを受けて、神の子として生まれ変わらなければならない』刀もちょんまげもなかったが、気迫は新撰組にいた時と同じだった」とあります。
 

それから2年間イビーと共に、山梨県下一円を廻り伝道に励みました。イビー―家と無二三の家族は親しい交わりを持ちました。
 

結城マツ夫人は、イビー夫人から、欧米の生活を吸収しました。特にパンは当時としてはめずらしい物でしたが、マツ夫人は、パンを焼くことも上手になりました。
 

後年、無二三が日下部教会の牧師となった折り、集会が終わると、このパンが出され、数人の信徒たちが、ご馳走にあずかっています。無二三牧師の長男礼―郎は、当時の信徒であった飯島さんや中沢さんが、「今日のパンは出来がよい」とか、「少し焼き過ぎだった」とか言いながら談笑したのを覚えていました。

 

(8)神学校に学ぶ


イビー宣教師が甲府を引き上げると、無二三は、正式な牧師になるために、東京麻布の東洋英和学校神学部に入学いたしました。学校に行きながら、牛込教会の伝道にあたりました。
 

家族は甲府に残したまま36才の新入生になったのです。聖書学神学の外 論理学、倫理学心理学と必死の勉学を続けました。最晩年、60才を過ぎて白髪の老人になった日々、上野の図書館に通いつめて、心理学書を読み、係りを驚かせたという話は、無二三の勉学振りを示しているようです。

 

(9)静岡・浜松での伝道


東洋英和学校神学部を終えた無二三は、静岡教会に派遣されました。山中笑牧師が居ました。当時のキリスト教は、耶蘇と呼ばれたりキリシタンバテレンとかやゆされていました。面と向かってアーメンソーメンと悪口を言われたりしたので、伝道は大変でした。
 

当時の静岡には、将軍だった徳川慶喜も健在で、旧幕府関係の人も多かったので、無二三の働きは効果を示しました。県令(知事)の所にも平気で伝道に行きました。
 

また、かつて幕府の講武所では大砲術を教えられ、沼津の小学校でも教えを受けた江原素六が、洗礼を受け、政治、教育で大きな力を示し、加えて教会設立にも加わったので、無二三にとっても追い風となり、静岡教会の基礎をしっかり固めるのに大いに役立ちました。
 

静岡教会で2年伝道にたずさわった無二三は浜松伝道に向かいました。信徒が1人しかいない所での伝道ですから、静岡市での伝道とは違って大変でした。その頃は全国的にも、ヤソ反対運動がー層強くなり、暴力団まがいの反対がしばしば起きました。
 

伝馬町の借家を開放して日曜日の集まりを始めましたが、無二三の説教になると、石が投げられました。少数の人は集会に来ているのですが、あぶないので奥の部屋に入って、戸を立てて讃美歌を歌いました。
 

石は無二三にあたります。顔にもあたります。それでも無二三はひるみません。これを見ていた見物の人の中から同情が出始めました。町内の有志が「伝馬町を荒らされてはたまらない」と説教の度ごとに提灯をつけてくれました。
 

そういう中で、相次いで信者が生まれ日本基督教団浜松教会が生まれました。無二三は東海道のムーディーと呼ばれ、各地から見学者があったと記録されています。米の世界的伝道者で、日本にも大きな影響を与えたムーディ一になぞらえられているのは、キリスト教関係者から見ると、目を見張るような光栄です。
 

浜松に近い見附、袋井、掛川の教会も、無二三によって開拓されたものです。

 

(10)日下部教会・牧師


家族を上げて、経済的な困難をものともせず、闘いのように伝道し続けた東海道のムーディーは、浜松での闘いを仕上げて、再び山梨の地に戻って来ました。40才になっていました。6年前、イビーと共に、「神を信ぜよ」と絶叫した新撰組隊士は、牧師として郷里に戻って来たのです。
 

無二三は塩山市千野に教会のもととなる講議所を開きました。当時、すでに勝沼にもメソジスト教会が生まれていました。その後、講議所を山梨市の八幡北に移しました。大村清三郎の家の半分が講議所になりました。
 

すでに数名の信徒が居り、新撰組時代や、甲府博覧会時代を知っている人もあったので結城無二三牧師には、応分の敬意を持つ人もいて、浜松伝道とは全く異なる教会形成となりました。伝道活動が進められたと言えます。
 

それでも、結城無二三以外の人によるキリスト教講演会などの場合には、ヤソ教攻撃に会うことが度たびありました。
 

山梨市岩手村で開かれた講演会の時に、あまりのヤジのひどさに、無二三とー緒に聞きに行っていた高部若太郎という青年が、反対に立ち上がると、「あいつをやっちまえー」と聴衆が総立ちになって高部にせまりました。その時、白髪の無二三牧師が、「来るなら来い」と身構え、すぐに収まったこともありました。この出来事は、私が高部氏から直接、伺いました。
 

結城無二三牧師は、イビーから洗礼を受けた後の2年間、信徒のまま日下部教会周辺域で伝道し、牧師になって約10年、伝道したことになります。
 

その間に育て上げた信徒の中に、飯島信明、中沢徳兵衛がいました。2人はやがて政治家として立ちますが、同時に、キリスト教精神を基盤とする東山梨禁酒会を立ち上げ、会長副会長となりました。
 

当時の禁酒会は、人びとが良い市民になることを目指していました。酒による家庭の崩壊や、人間同士の反目、犯罪を減らそうという運動で、東山梨の全村に支部がつくられました。表に立って活躍したのは飯島、中沢たちですが、その背景、バックボーンは無二三牧師の信仰だったことになります。禁酒会が地域に与えた良い影響は、現在まで続いていると考えられます。
 

48才になった無二三牧師は、尊敬して止まないイビーが再来日し、東京で本郷中央会堂を建て、協力して欲しいと依頼されたので、山梨での牧師生活を中断して上京しました。
 

この事業は2年で終わってしまったので、1895年(明28)山梨にもどって石和講議所の牧師となり、1898年には再び日下部講議所牧師となりました。1901年(明治34)   56才で牧師を引退し、東京で生活し、1912年(明45) 67才で亡くなりました。妻と子供たちに「おれは平和だ何も思い残すことはない」と言い残しました。

 

おわりに
 

新撰組に加わった疾風怒濤の青春、動乱の中に生きた前半生と、敬虔なキリスト教徒として、牧師として、人びとや社会に捧げた後半生は、宣教師イビーが言ったように、神の計画だったと私は信じています。
 

無二三という名前は20才のとき自分でつけた名前です。俺ほどの者は2人とはいない筈だという志を名前にしたのです。
 

その志の中核は、不正を許さない心、正義の心だったと思います。それを新撰組で行なおうとして挫折したのですが、牧師となって神の正義を伝え続けることで全うしたと言えると思います。
 

無二三の死の知らせをカナダで聞いた宣教師イビーは日本語で「ああサムライ結城無二三」と絶句しました。
 

その精神は、今も生き続けていると信じます。さらに生き続けさせたいと願います。
日本の国にいま精神の乱れがあり、もっとも失われているものが正義の心であることを思うとき、あらためて、結城無二三の生涯に思いをいたすものです。
 


参考資料
  NHKラジオ第2「宗教の時間」

2004年10月31日、11月7日、2005年3月27日、4月3日放送分

                                          

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