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​主日礼拝の説教

説教「使徒信条② イエス・キリストを信じる」

聖書:フィリピの信徒への手紙2章1〜11節

2024/2/18 受難節第1主日

【聖書】

1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 

8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 

9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 

10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 

11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

使徒信条 

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよりみがへり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、

かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。 アーメン

 

***

 

 主イエス・キリストの生涯を説明するときに「落ちっぱなしの人生」とよく言います。

 今日の聖書のフィリピ書の6〜11節は「キリストの道の歌」という当時の讃美歌の歌詞と言われていますが、前半はキリストが主語で、「神の身分に固執せず」「自分を無にして」「僕の身分になり」「人間と同じ者になり」「十字架の死に至るまで従順であったこと」です。神の身分から僕の身分、人間と同じ者から人間の中で最も呪われた死、十字架の死に至る歩み。ベツレヘムの粗末な飼い葉桶から、ゴルゴダの呪われた十字架への歩み。キリストが生涯をかけて自らなしたことは下りに、下ることでした。これがイエス・キリストが自らなしたことでした。

 わたしたちは生涯をかけて全く逆に歩もうとしている。這い上がろう、のし上がろう、上り詰めよう、自分の名を高く挙げよう、神と呼ばれるものになろうとします。

 それ以後は「(父なる)神」が主語です。キリストを高く上げ、ご自身の右の座につかせたのは父なる神でした。主イエスの飼い葉桶から十字架への歩みのゆえに、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」のです。

 

 今日は使徒信条の第二項に入ります。「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信じず」以下の一個一個について、お話しすべきですが、今日も一回で終わらせなくてはなりません。駆け足になってしまうのはお許しください。

 

○ひとり子

使徒信条はいう。「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」。神のひとり子とは、神に等しい神の子だと信じることです。

 

○主

 この人はわれらの「主」だと信じる。飼い主の「主」、救い主の「主」。主と信じるとは自分がイエス・キリストに属する者だと信じることです。キリストに属する者、キリスト者です。

 

○まことに神、まことに人

 使徒信条にはない言葉ですが、主イエス・キリストは「まことに神、まことに人」と信じなくてはなりません。先ほど、主イエスは神に等しい神の子と申しましたが、さらにまことに真実に人であるとも言わなくてはなりません。人として、世にお生まれになりました。

 主イエス・キリストは神と人間の架け橋となられたのです。神と人の間には罪と死というの深い裂け目がある。そのためには主イエス・キリストが「まことに神、まことに人」でなければなりません。

 

○聖霊によりてマリアの体に

 使徒信条は、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」と言い表しています。教会はクリスマスと呼んで祝っています。神はその出来事をマリアという乙女の体を用いて行われました。生まれた乳飲み子は飼い葉桶に寝かされました。

 男性を知らない少女に子どもが宿るのかとよく議論になりますし、よこしまな詮索もなされますが、人間の手には不可能な救いが、聖霊によって起きたのです。

 

○ポンテオピラトのもとに

 これに続いて、「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」とあります。誕生の後に歩んだイエスの生涯についての告白です。そこには教えを宣べ伝えた、癒しの業を行なったなど一切なく、いきなり受難に入るのです。ポンテオピラトの司る裁判で有罪の判決を受け、罪人に数えられたということです。

 イエスの死は暗殺じゃダメでした。裁判での有罪判決を受け、十字架によって死刑にされねばなりませんでした。人間のどす黒い政治的駆け引きの中で、しかし神の計画が実行されました。わたしたち罪人の救いのためなのです。

 

○十字架につけられ

 先週の「灰の水曜日」から、受難節に入りました。この時期、いたましなげかしと禁欲的に慎み深く生活をすることが昔から奨励されてきましたけれども、私たちは主の「苦しみの実り」、主の御受難は私にとっていいことだったのだ、と思って良いのではないか。受難節を喜びと感謝で過ごしていいのではないか、と思っています。

 使徒信条はキリストの死を「十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り」と告白します。「十字架につけられる」とは、即、死ぬことではないことがわかります。罪人らの手に引き渡された主イエスは午前9時に十字架につけられ、午後3時に息を引き取りました。激痛と渇き、見せしめ、人々のあざけりが長く続く、究極の残酷刑です。

 

○死にて

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

 究極の絶望です。罪人らの受けるべき怒りの裁きとはこれだ、神に見捨てられた絶望をも堪え忍んで、主イエスは息を引き取られました。残酷な痛み、苦しみの揚げ句の死が神の怒りでありました。

 

○葬られ

使徒信条は「葬り」をもって主イエスの死が確認されたとします。どの人間とも同じように本当に死なれたのだ。そして私たちも死んで葬られたのだと言います。これから執り行う洗礼はキリストと共なる死と、葬りです。キリストと共なる死と葬りなら、命は新しくなる。キリストと共に立ち上がるようになるのです。

 

——わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

(ローマの信徒への手紙6章4節)

 

○陰府にくだり

次に「陰府にくだり」と続くのです。陰府とは、死者の世界、地獄です。聖書では閻魔大王がいて針の山、血の池があるというそんな世界ではない。冷たくて、暗くて、虚しい場所。喜びがない、祈りがない、神への賛美がない死者の世界です。

ペトロの手紙は、こう書かれてある。

 

19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。

 

 キリストは死んだ、葬られた。それだけじゃなくて陰府まで降った。キリストは陰府にまでくだり伝道された。福音は陰府まで届いたのです。神はいない死者の世界にさえ、キリストはくだられ、福音を語る。キリストの死という福音は地獄の人々さえ捉える深みを持っています。

「過ちを犯せば地獄に堕ちるぞ。天罰が下るぞ」。そう言って人々の良心を恐れさせ、縛り付ける人たちがいます。それは福音じゃありません。

 

 キリストはなぜ神の座を捨て、人となり、十字架につけられ、死なれ、陰府にまで降ったのか。それはあなたのもとに下るため、しかもあなたの罪に向かって、あなたの喜びのない陰府のような心に降りてこられ、福音を告げるためです。

フィリピ書の「キリストの道の歌」にある、主イエスが自ら歩んだ歩みは、こうして終わりました。

 

○三日目に死人の内よりよみがえり

 そして「三日目に死人の内よりよみがえり」。ついに復活が言い表されます。キリストは自力で復活したのではありません。先ほどの飼い葉桶から十字架への歩みのゆえに、神が主イエスを起こされたのです。

 

○天に昇り

 復活の主キリストは三日目に死者の中から復活し、40日間、弟子たちと共に過ごし、天に昇って、神の右につきました。神の右につくとは、神に等しい者になることです。以前とは違う今やキリストは信じるものと共に天に昇られました。

 

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(マタイによる福音書28章19〜20節)

 

 主イエスは天におられ、見えない姿となりました。しかしそれこそが「インマヌエル」(神、われらと共にいます)の実現でした。

 教会の伝統に拠れば、昇天日が「伝道祝日」とも呼ばれます。イエスの昇天は伝道の始まりでした。教会は天に昇られたキリストの主権に従って、命じられたことを行うのみです。

 

 

○全能の父なる神の右に座したまえり

使徒信条は「全能の父なる神の右に座したまえり」とあります。

 イエス・キリストは神の座に座られました。全能の父なる神がそれをなしたのです。キリストが世界を支配する新しい時代の始まりです。それは何より天におられるキリストが教会の頭になったと言うことです。

 

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 (9節)

 

キリストの主権に従う教会が確かにここに出来たのです。だから私たちはキリストの体なる教会へと成長しなければなりません。キリストが謙って人間に仕えたように、自分のことばかりではなく、他者に関心を払い、互いに相手を優れたものとして尊重する教会へと成長するのです。

 

○かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁きたまわん。

 最後の項目は「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁きたまわん」です。天に昇られたキリストは再びに世に来られと信じるのです。

 それがいつかはわからない。「主の日は盗人のようにやって来ます。」(ペトロの手紙二3章10節)

 それは世の終わりの日。人生、死んだらすべておしまいではありません。その日が来たら、生きている者はもちろん、既に死んでいる者も含めてすべての人が主イエスの御前に立ってそれぞれの人生を裁かれることになります。すべて隠されたことも明らかにされます。

その日、私たちはすでに罪の赦しを得た者として御前にたつのです。

 聖書には神が計画した救いの歴史が貫かれています。天地創造から始まって、やがてキリストの再臨の日、終わりの日で完成する神の救いの歴史です。

 私たちは今どんなときに生きているのか。キリストの昇天と再臨の間に生きているのです。世界最終戦争じゃない、人類滅亡じゃない、キリスト再臨の時です。

 それはどんな時代にあっても、希望をもって生きることを教えてくれます。「既に」実現したキリストの救いを喜び、「未だ」来たらぬキリストを待ち望みながら生きることを教えてくれます。その日を待ちつつ、生きるのです。いつも目覚めて生きること、御言葉と祈りに生きることを教えてくれます。

 

 その日、「御名が崇められ、」「御国が来たり」「天の御心が地上になる」でしょう。高くされた「イエスの名」において、天上の者、地上の者、そして地下の者たちが礼拝するでしょう。 すべての舌が、「イエス・キリストは主なり」と告白するでしょう。せざるを得ないでしょう。父なる神の栄光のために。 

 

(祈り) マラナ・タ。主よ来てください。

 

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