◇それってキリスト教?
新興宗教…キリスト教の土壌から生まれたキリスト教ではない新興宗教
キリスト教会は聖書を大切にし、聖書を神の言葉として礼拝で朗読し、聖書による説教がなされますが、聖書を読んでいれば間違いなくそれはキリスト教会かというと、残念ながらそうではありませんので十分に注意してください。
キリスト教から生まれたキリスト教ではない新興宗教には、代表的なものとして、
モルモン教
清潔で真面目な感じのアメリカ人の青年が「あなはた神を信じますか」
ものみの塔
子供を連れた女性が複数で戸別訪問をして聖書や神様の話をする
統一協会
集団結婚式、訪問販売などで社会問題に。『原理講論』が教典
があります。これらのグループの人たちの話しや出版物には、聖書、神、キリストが出てきますが、その教えは、キリスト教会の教えとは多くの点で異なっています。また聖書の読み方は、聖書を生み出し、神の言葉として受け継いできたキリスト教会の読み方と比べると、自分たちにとって都合の良い特定の字句にこだわった、聖書全体の内容を無視した、曲解やこじつけの多いものです。聖書のメッセージにきちんと触れたいと思われる方には、お勧めできる聖書の読み方ではありません。
それでは、キリスト教会とキリスト教会とまぎらわしい新教宗教を見分けるポイントは何かということですが、ふつうのキリスト教会は以下のことを大切にしています。
1)聖書は神の言葉
聖書をとおして神を知る。ここのところが基本です。
聖書とは別に、聖書と同じくらい大事な聖典(教典)のようなものがある場合は要注意でしょう。
2)救い主はイエス・キリスト
イエス・キリストはまことの神、まことの人。キリストによって救われる。
キリストとは別に、教祖のような人物がいて、その人物の教えも大事というのはかなり危険な教えです。
教祖のような人物が「キリストは私だ」と言う場合もあります。
3)聖書をとおしてご自分を示されるの神は三位一体の神(父・子・聖霊)
キリスト教信仰の基本は、三位一体から言葉にすると、イエス・キリストをとおして、父なる神に、聖霊によって結ばれるとなります。
明確に、三位一体、父、子、聖霊という言葉が使われない場合は怪しいです。
4)教会はキリストの体(キリストを中心にした信仰の共同体)
教会はキリストの救いに生き、救いを受け継ぐ信仰の共同体。
キリスト教会への入信の儀式としてキリストに結ばれる洗礼、キリストとの交わりを深める聖餐(パンとぶどう酒にあずかる)があります。洗礼と聖餐の執り行い方は教会によって違いますが、教会で正式に任命されている牧師(司祭)が執り行います。
5)信仰の基本として使徒信条やそのほかの基本的な信条(教義)を大事にする
日本キリスト教団には使徒信条を含んだ「日本基督教団信仰告白」があります。
教会によっては信仰告白を持たない教会もありますが、これに準ずる信仰の基準は必ずありますので、その教会の牧師などにたずねてください。
などのことをきちんと表明しているのがキリスト教会です。これらはあくまでひとつの説明の仕方ですが、参考にしてください。
でも、1)から5)では難しすぎる、もっと具体的に分かりやすくという場合には、
6)脅かして不安にする。
信じないとあなたは地獄におちる、家族が不幸になるなどと繰り返し強調する。その場合、この世界は悪魔(サタン)が支配しているという言い方がされたりします。キリスト教会では、世界を支配しておられるのは、天地の創造者である神です。神は真実な愛によって私たちを導いておられます。人間をいじめるためだけに苦しみにあわせるようなことはなさいません。誰でも心のなかには、悔いの残るようなこと、やましいことがあるものですから、脅かされると不安になってすがりついてしまいます。脅かして逃げないようにするのが狙いのようです。
7)ほんとうのことを知っているのは自分たちだけ。
自分たちの教会(グループ)だけが、他の教会には隠されている神の秘密、ほんとうのことを知っている。ほかの教会はぜんぶ間違っているとします。場合によっては、その教会(集会)に通っていることを家族や友人にも隠し、そこで見たり聞いていることを外では話さないようにとに口止めされるたりすることがあります。口止めの理由は、自分たちのグループ以外は、みんな悪魔の手先だからというような言い方がされます。そのような場合は、かなり危険なグループの可能性があります。ふつうのキリスト教会の集会では、外で話せないようなことが話されるようなことはありません。
8)最後に救われるのも自分たちだけ。
世の終わりの時(終末の時)には、自分たちだけが救われる。他の人達はみんな地獄におちると強調します。ふつうのキリスト教会は、救い主であるイエス・キリストを信じる人は救われる。信仰をもっていない人のことも、神の愛に信頼してお任せすることができると考えます(信仰がなくても救われるという言い方はしません)。
イエス・キリストはすべての罪人のために十字架にかかられ、私たちが受けなければならない裁きと滅びをその身に担ってくださいました。それが神の愛です。そこまで私たちを愛し、救うためにご自分のすべてを投げ出してくださったイエス・キリストが、世の終わりの時には、別人のようになって、地獄に落とす罪人と天国に迎える義人(神によって正しいとされる人)に人を選別されると考えるのは、イエス・キリストの愛への信頼が欠けているのではないかと思わされます。
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常識的に考えて何か変だなと感じたことがあるなら、まずはその疑問を大事にしていただきたいと思います。神の愛は人間の常識を越えた愛ですが、神の愛によって生きることは、反社会的で非常識な人間になることではありません(たしかに、その時代の中心的な価値観とは違う生き方をしなければならないことはあるのですが、神が創造された命を傷つけたりすることが正当化されることはありません)。
キリスト教の信仰は、納得できないことを無理に信じ込むことではなく、聖書によってほんとうの神を知り、神に感謝し、心から神に信頼して生きることです。
聖書やキリスト教に関心がある方、生きるということを真剣に考えてみたいと思う方、教会に行ってみようかな考えておられる方には、ひとつの目安として、その地域で歴史のある教会に通われることをお勧めします。